中村芳満 昭和19年(6歳)

第23話 桜木在満国民学校(1
第24話 順天公園
第25話 海賊の宝物
第26話 キリギリス
第27話 防空壕異聞
第28話 桜木在満国民学校(2)


 
第23話  桜木在満国民学校(1)

  父が上の子供たち3人分の防寒着を買って帰ったのは、やけど騒ぎが続いて1ヶ月くらい経った頃だった。防寒着といっても、ただ厚手の着物を買えば済むというものではない。上からまず防寒帽、防寒着に防寒ズボン、防寒手袋、防寒靴と、分厚いフエルトのような生地で出来ているこれらの衣類を一揃え支度するのは、一人ぶんでも大変なのである。サイズだって様々だから、父も目測で買ってくる他はない。それらをサンタクロースのように大きな包みにして3人分背負って帰ってきたのである。


安達街の自宅裏。
ゴルフ場へ行く道で、線路のほうから写す
左から次兄(桜木小1年)
私(5歳)長兄(桜木小2年)
昭和19年1月9日 この日長兄の誕生日だった
防寒帽に防寒服、防寒手袋、防寒ズボン、防寒靴
完全な防寒ルックだ

  私は、以前内地へ帰るときに着て行った、フードの付いた、毛足の長い真っ白な毛皮のシューバーを持っていた。 新京の冬は寒すぎて、小さな子供はあまり外へ出ないから、それをしょっちゅう着ていたというわけではなかったが、このシューバーは暖かく、私にはお気に入りの外套だった。 ただこの頃はすでにサイズが合わなくなってきていたことも確かだった。

 父が防寒着を買ってきて、そのシューバーを弟の芳興にやると聞いたとき、私は相当に愚図ったらしい。父の買ってきた防寒着は、芯に断熱材の入ったごわごわした生地でできていて、毛皮のシューバーと比べたらどう見てたって色も格好も悪いのである。

 だが、小学生は毛皮を着ていけない決まりだとかなんとか、適当なことを言われて、すぐ納得してしまうのが、私の性格だったらしく、父にしてみれば、私は間もなく小学校へ入学するし、兄弟3人同じものを着せるのが理想だったのだろう。 結局私のシュ-バーは弟のものになり、私は仕方なく新しい防寒着を着ることになったのだが、いざ兄弟3人でそれを着てみると、それはそれで恰好がよくて、私はすぐにそれを気に入ってしまった。何よりも兄たちとお揃いというのがうれしかったのだ。それに毛皮の内張りの付いた防寒帽の耳覆いを頭の上に跳ね上げて止めると、まるで戦闘機の操縦士になったような気分になるのである。

 ただ、冬はあまり外に出歩いたわけではないし、学校へはこういう重装備では行かなかったから、この防寒着には、たまに雪でも降って、外で遊ぶときに、防寒靴を履くくらいで、さしたる思い出はないままに終った(写真下)。

 程なく年が明けて、私の入学の時がやってきた。母のお腹には五男がいて9ヶ月の身重だったから、その日は父に連れられて学校へ行った。新京桜木在満国民学校という呼び名は、3年前に変わったのだそうだが、その長い名をなぜか強烈に覚えていて、何十年経た今でも桜木小学校ではピンとこないでいる。

 その日のいでたちは、戦闘帽に黒ずんだカーキ色の上着で、これは軍服を模して作られたものだった。この頃になると黒い学童服に黒い学帽という、小学生のお決まりの服装をしている子供は一人も見かけなかった。みんなこのような兵隊さんの恰好をさせられていたのである(写真)。

 学校の門を入ると左側に戦車と大砲が置いてある。父は「これは日本製じゃないなあ、ロシアの分捕り品かな。ロ号戦車とでも言うのだろう」などと独り言を言っていた。それを横で聞いていた私は、その時以来ずっと、それがロ号戦車で、ロシアの戦車だとばかり思ってきた。桜木小学校ホームページの掲示板で、その戦車が満州事変で活躍した、フランス製の二人乗り、ルノー甲型戦車であると知ったのは実に63年経った最近のことである。それにしても、よくこういう些細な、どうでもいいことを執念深く憶えているもんだと、自分でも感心することがある。

 私は生まれて始めて見る戦車に興奮してしまい、よじ登ってみるとてっぺんの入口は空いているし、早速中へもぐりこんでなかなか出てこなかったと父が話していた。操縦席へ座ると、細長い隙間があって、そこから前を見て操縦するのだと聞かされて、びっくりした記憶がある。あんな狭い隙間から前を見るのだとは知らなかった。顔を近づけて外の景色を眺めてみると、結構広い範囲が見えるので、子供心に感心してしまい、こうして戦車に乗るのもいいなあ、僕は戦車兵になろうか、などと考え、戦闘機とどっちがいいかなどと迷っているのである。
 実はその日、学校へ来る道すがら、父から
 「今日は先生から、大きくなったら何になるって聞かれるぞ。何て返事する?」
 「僕は、航空隊に入って飛行士になる」
 父とそんなやり取りをしていたのである。
 それなのにこうして戦車を見ればすぐそっちへ変わる、これを臨機応変ならぬ臨機豹変というか、意思薄弱というのか、要するに何にも考えていないのである。

 私のクラスは1年桃組。玄関を入って、どこか廊下を右に曲がったところの教室で、校舎の真ん中あたりだった。窓際にスチーム暖房の放熱釜が並び、窓の外はすぐ広い校庭につながっていた。   
 学級は色で分けられ、赤、白、青、黄、緑、桃、紫など7組あったと記憶している。担任は持丸サナミ先生といった。この名前も63年間ずーっと忘れていたのだが、最近の桜木小の同窓会に出席して思い出させてもらった。

 私の家では、毎年正月になると山梨の田舎から餅を送ってもらっていた。それは四角に切ったのし餅で、そのため私は餅は四角いものだという先入観を持っていた。
 その頃私の家では『朝日新聞』を購読していて、その社会面に連載される『ふくちゃん』という4コマ漫画を見るのが毎朝の私の楽しみだった。大学帽をかぶった子供が主人公の、一寸風刺の効いた漫画である。
 いつだったか、その中に、新築した家の上棟式で餅を投げる話があったのだが、そこで投げられている餅が丸いので、母親に「どうしてこの餅は丸いの?」としつこく聞いて困らせたことがあった。
 それを憶えていた私は、持丸先生のことを、お腹の大きい母に話したあと「ワーイ、まる餅だ、まる餅だ」と、大声を上げながら家の中を走り回ったのだった。
 
2006年の桜木小同窓会で、森和子さん、坂野秀子さんという同級生の方と、かつての写真を見ながら『持丸先生』と聞いたとき、63年前のあのシーンを瞬時に思い出して、胸が熱くなったのである。

 小学校では私はおとなしくて目立たなかったと思う。特別仲のいい友達が出来たということもなく、学校へ行って、ただ家に帰る、そんな毎日が続いた。帰りはいつも一人で、友達と連れ立って学校から帰った記憶は全くない。同じ方角に帰る子供もいなかった。兄たちがいたから、それほど友達を必要としなかったのだと思う。

 学校へ入って間もなく『献納』というのがあって、缶詰の空き缶などを学校に持って行かされた。全校生徒にそういう要請が来ていたのかどうか知らないが。それを集めて鉄砲玉や大砲を作るということだった。
 普段わが家では缶詰などあまり食べたことがないので、私の母もその時は空き缶を集めるのにだいぶ頑張ったらしい。何しろ3人も学校へ行っているのだから、数を揃えるためにあちこちから缶詰を買い集めて、その日から缶詰ばかり食べさせられた。魚の缶詰、肉と豆を煮た缶詰、みかんの缶詰など、最初は結構ご馳走だったのだが、いつかの雉の肉と同じで3日もすれば飽きてしまって、子供たちの食欲も落ちるというものである。
 結局母も適当なところで切り上げて、兄弟3人が持っていく空き缶を、歳の順に少なくなるように分けて、持たせてもらった。私の分は空き缶3個ほどしかなかった。その中に一つドロップの空き缶があって、それを出すのが惜しくて、母に内緒で隠してしまったのだが、中には大きな袋いっぱい持ってきた子供もいて、少し恥ずかしかったことを憶えている。そのドロップの空き缶はしばらくの間私の宝物になっていた。
 こんなことをして空き缶まで集めて武器を作らなければならないほど、日本の国力はなくなっていたのだろう。児玉公園の銅像が無くなってしまったのもこの頃だった。

 家では五男の芳直が生まれて、これで子供は全部で6人となり、小学3年生の芳純を筆頭にいたずら盛りの子供を殆ど年子のように抱えて、母はてんてこ舞いの忙しさだったに違いない。ここだけで幼稚園が出来るような大所帯に、働き者のクーニャンがいなければどうなっていたか分からない。

 芳純は学校から、食事時に暗唱する言葉を教わってきて、弟たちにそれをやらせるようになった。曰く“箸取らば、天地(あめつち)御世のおん恵み、君と親とのご恩味わえ”というのである。合掌した親指に箸を挟んで、目をつむり、これをうやうやしく額に掲げて暗唱するのである。芳純は性格的に大真面目で、これを永いこと続けていたが、弟たちは三日ほど続けうやむやにしてしまった。こんなばかばかしいことを何でやるのか、芳輝はすぐに怒り出して「あんちゃんが代表で一人でやれ」などといって真っ先にやめてしまった。これは学校のお昼に弁当を食べるときに暗唱させたのだと思うが、小学1年生ではやらなかった。

 夏が来て、学校のプールが使えるようになった。水着を着けた憶えがないから多分“ふりチン”だったと思う。私は生まれて初めて入るプールに、なぜかどきどきして、こわごわ水に入ったのを憶えている。が、水に入ってしまえば他の子供と同じで、無我夢中で水遊びに興じてしまうのだ。ただ、いつかの大豆の海のように格好良く泳ごうとすると、沈んでしまうのである。これには困った。
 仕方がないのでプールの底に手をついて見ると、指をピンと伸ばせば手がつくのである。顔を空に向けなければ息ができない状態だが、何とか泳ぐ真似くらいは出来る。私は先生を呼んだ。泳ぐところを見せて自慢したかったのだ。持丸先生はすぐにやってきて、私を見下ろしながら、うまい、うまいと言って手を叩いてくれるのだった。私は飛び魚のごとくすいすい泳ぐ自分の姿を想像して得意だった。
 この時のよい気分は日本に帰ってからもずっと忘れないでいたのだが、忘れないでいたために、中学生になってちゃんと泳げるようになったとき、桜木小学校のプールで、ぶざまな恰好でウソ泳ぎをして、先生に自慢したことを思い出して、実に8年越しの大恥をかいたのである。

 山梨にいる母の叔父の荒井金造から、父に手紙が来たのもこの頃のことだろう。日本の領土のサイパン島をアメリカに取られて東条内閣が辞めた。ついてはそろそろ家族を日本に返すことを考えなさい、というような内容だった。

これは昭和33年頃、学生の私が、75歳になったばかりの金造さんを、訪ねたときに話してくれたことだが、 「マリアナの海戦で、大本営は都合のいいことを言っていたが、ありゃあ本当は大負けで、日本の軍艦は殆ど撃沈されてしまったんだよ。あれでこの戦争は勝負あったんだろうね。
 土壇場になって、こともあろうに、ソ連に手を回してアメリカと休戦の仲介を頼んでいるんだから話にならん。ソ連など満州と朝鮮の権益を欲しくてかなわんのだから、国民から空き缶なんか集めている状況を見りゃあ戦争の仲裁などするわけがない。詰まらん条約を結んで得々としていた輩がいたが、不可侵条約なんて守ると思う方が間違ってる。それに樺太、千島、場合によっては北海道というご馳走が目の前にある。ドイツが一段落すれば、いずれ何のかんの口実をつけて攻め込んでくるに決まっている。そうするとどうなる?相手は血も涙もないスターリンだよ。関東軍だって支那で疲弊していて、日本から武器が行かなくなったら戦争なんて出来んよ。ただでさえ鉄がなくて弾が作れんじゃないか。燃料は無し、兵は足りんし。
 だからお前の親父にそろそろ日本へ帰るように謎をかけたんだがな、分かったのか分からんのか、先生帰って来ないんだよ。だからと言って露骨に書いて特高にでも見られたら、しょっ引かれるしなあ。
 お前の親父を満州へ行かせたのはわしだからな、責任を感じてたんだよ。でも、まあ、帰って来れたからそれで良しとはしたんだが、危ない橋を渡らせて済まんことをした」
 この葉書をくれた当時、金造さんは60歳だった。この元外交官には分かっていたのだ。いや、辞めて野に下っていたからこそ、先が見えていたのかも知れない。

 満州には梅雨などというものはない。この季節も晴天が続いて、学校のプールにもその後2回くらい入ったような記憶がある。クラス全員で入るプールの水遊びは楽しいものだった。
 そして、初めての夏休みが来た。 


   第24  順天公園 

 夏休みというのはどの子供にとってもうれしいもので、来るのが待ち遠しいものである。毎朝、母親に無理やり起こされて、型どおり顔を洗って朝飯を食べ、早く早くとせかされてに学校に送り出されるのは、入学まだ数ヶ月の私でさえ辟易としている。だから、早くも毎週の日曜日が嬉しいと感じ始めているのである。
 夏休みは、その大好きな日曜日が大きな塊りになってやってくるのだから嬉しくないわけがない。第一に早々と起こされないのがいい。特に芳輝などは、父から『眠り玉』の異名をもらうほどに、普段から長時間よく寝た。いたずらをしているか寝ているかというくらいよく寝る子供だった。

 夏休みに入って最初の日、遅々起きてきた芳輝が、なにやら嬉しそうに、そわそわ身支度をしている。
 「おい。今日は魚取りに行こう」
 (またゴルフ場で遊べるぞ)と楽しみにしている私に、芳輝が意外なことを言うのである。
 魚捕りといっても私には思い当たる場所がない。いつか行った南湖は遠すぎるし、第一釣竿も持っていない。
 「どこ?」
 「順天公園。昨日学校から帰りに友達と行ってきた。」
 順天公園は去年祖父に連れられて一度行ったことがあるけれど、その時は電車で、随分遠くまで乗った覚えがあるのだが、学校から帰りに寄ってきたのなら大丈夫だろう、などと私なりに考えてを巡らす。事実、芳輝はクラスの友達と連れ立って、歩いてそこへ行ってきたのである。
 「だって、釣竿がないよ」
 わが家の場合、父親が釣りを好きでなかったせいか、釣竿というものはなかった。
 「釣竿がなくても、捕り方を聞いてきたから大丈夫」
 芳輝は自信満々に言うのである。

 桜木小学校の1キロくらい南に順天公園という大きな公園があった。桜木小学校の界隈を新京市順天区といったから、この公園も同じ地区に属していたのだろう。小学校の東側には13万坪の帝宮建設予定地があり、その正面には、興仁大路を挟んで、日本の国会議事堂にあたる国務院があり、さらにその南一帯が順天公園だった。この公園は東に1,8キロのところで、大同大街に達している。順天公園の総面積は帝宮建設地と同じ13万坪で、これは東京の明治神宮の2倍の面積に匹敵する。大同大街を越えると更に別の公園が続き、いわばテーマパークの様に、やがて野外劇場も備えた動物園、更にその東が運動公園になって終っていた。こちらの公園だけでも順天公園の3倍の広さがあるといわれる巨大な公園群だった。
 長男の芳純は学校の遠足で動物園まで行ったことがあると話していたが、私も芳輝も、こんな広い場所を歩いたことなどなかった。つまり一番西のはずれのボート池くらいしか見たことがないのである。

 去年の夏休みは、芳輝は母から勉強の“しごき”に遭っていたのだが、母は芳輝の覚えの悪さにはほとほと愛想を尽かしたらしく、子供たちの『やけど事件』以来、芳輝の勉強のことは諦めてしまっていた。
 母は、芳輝が勉強をやろうとしないのは、頭が悪いからではなく、つまらないことを詰め込まれるのが嫌いなだけだということが分かったのだ。事実、母が感じたように、物をこしらえたり改良したり、自分の好きなことには、大人もかなわないような天才的な発想をする子供であることに、母は気付いたのである。物を壊して、それを元通り直すのが好きな子供は、得てしてそういう場合が多いことを、何かの本で読んだことがある。 だから、こと芳輝に関しては、「好きにやれ」という風に方針を変えてしまったのだった。

 芳輝は台所から適当な笊(ざる)を持ち出してきた。それを吊り下げられるように器用に紐をつけた。紐は結構長くて、4・5メートルはあった。
 「この中に餌を入れて、橋の上から下ろしておけば魚が入るんだと。」
 「えさは何を入れるの?」
 「友達がミミずだって言ってた」

  私は兄と二人で、その辺の空き地をほじくり返してミミズを探したのだが、どこを探してもミミズはいないのである。私たちはミミズが堆肥などの有機物の下にいることなど知らない。元来、満州の土は痩せていてミミズは住みにくいのだという。そう云えばこの一帯に多い大豆、ジャガイモ、高粱などは、こういう痩せた土地に適している作物だと聞いたことがある。
 「いないなあ、ミミズ」
 「何かでミミズに似たものを作ろうか」
 芳輝はやる気満々なのである。私たちは台所へ引き返し、芳輝は戸棚の中から味噌を探し出してきた。
 「これを手でよじって、ミミズを作ろう」
 「魚が、味噌なんか食べる?」
 「だからァ、魚がミミズだと思って近寄ってきたら、食う前に引っぱりあげればいいじゃんか。」
 芳輝はどうやら魚をだまそうと考えているらしい。
 「そうかなあ……」
 いつかのゴルフ場でもそうだったが、兎捕りも最初は面白かったが、もともと殺生があまり好きでない私は、どちらかといえば皆に仕方なくついて行った感じだった。だから魚とりも、それほどうれしくはないのである。
 芳輝は味噌を手いっぱいに掬い出すと、新聞紙にそれを包んで、
 「向こうでミミズを作ろう」と、私をせかすのだった。

 公園は遠かった。桜木小学校のところから電車線路のある興亜街の通りを少し歩いてすぐ左へ行けば近道だという。このあたりは見覚えのあるレンガの建物が並んでいる。(ずっと前、幸ちゃんに手を引かれて毎日歩いた場所だ)と私は思う。(この辺に幸ちゃんの家があるのに……)
 芳輝は味噌のかたまりの入った笊を持ち、私は大きなブリキのバケツを下げて、ただひたすら歩いた。頭の中は魚のことしかないのである

 20分くらい歩いて公園に着いたとき、私は先日学校で初めてプールに入るときに感じた、あのときめきが胸に湧いてくるのを感じていた。公園には私たちの背丈くらいの、ゆすら梅や山査子、リラの木などが点々と植えられていて、それらの木々の間に近道を行くらしい人の歩いた細い道がくねくねと続いていた。起伏もかなりあって、池には階段状に付けられた穴を踏んで下りていった記憶がある。


この橋の真ん中辺りで笊を垂らした。 池はボートで賑わい、岸辺では大勢の人が釣りを楽しんでいる。
鮒や草魚がよく釣れたという

 池の淵に立つと、真正面に国務院の大きな建物が、私たちを見下ろすように聳えていて、その下には何艘ものボートが浮かび、夏の日にきらきら光る水面を賑わせていた。木の多い公園で、楡や楊の大木がさわやかな日陰を作り、その下で寝そべる人達もいた。
 池のくびれた部分に木の橋がかかっている。僅かに太鼓がかって湾曲した橋の向こう側の袂には一寸した四阿があって、そこから続く池の淵に沿って大勢の人が釣り糸をたらしている。大人に混じって、小学生らしい子供も釣りをしているのが見える。
 私たちは橋の真ん中に陣取って、予定の作業を始めた。味噌をよじってミミズを作るのである。20センチくらいの細長いうどんのようなミミズが出来上がる。それを2本笊にいれ、このままでは笊が沈まないので、適当な石を見つけてきてその中に一緒に入れ、水に垂らす。魚が捕れたときのために、バケツに半分くらいの水も用意した。

 ただ、計画とは違って水面は低く、光を反射して何にも見えないのである。仕方がないから、そのまま水に垂らして適当な時間を見計らっては、笊を上げてみるのだが、魚はなかなか入ってこなかった。そしてこの特製の“ミミズ”は笊を上げるたびに溶けてなくなってしまい、その都度ミミズを作らねばならなかった。そんなことを何度繰り返しただろうか、そのうちにお昼近くなって、空模様が怪しくなって、ポツリポツリと雨が落ちてき始めたのである。

 「えーい、これをみんな入れちまえ。」
 芳輝は残っていた味噌を全部丸めて、細いミミズを作るのは面倒だといわんばかりに、巨大なこん棒のような塊りを作って、それを“どすん”と笊に放り込んだ。魚がなかなか入らないので、少し不機嫌になっているのである。
 「こんなでかいミミズはいないよ。これじゃまるでうんこみたいだ」
 色といい、形といいまさしくそれはうんこにそっくりで、こんなの見たら魚がびっくりして逃げてしまうと、私は大真面目で抗議するのだが、事態は切迫していたのである。
 雨は急に激しくなって橋の上になど居られる状態ではなくなってきた。芳輝は、水に垂らした紐の先端を橋の欄干にくくりつけ、「それ、逃げろ」と掛け声をかけるや橋の向こうの四阿に逃げ込んだのだった。バケツも何もみんな橋の真ん中に置きっぱなしだった。

 四阿の中は、岸辺で釣りをしていた人達で超満員だった。みんな恨めしそうに夕立の空を見上げながら、煙草を吸ったり、中には握り飯を食っている人もいて、何を釣った、かを釣ったと釣り談義に賑やかだった。
 そのうちに、何人かの知らないおじさんが私たちに話しかけてきた。
 「坊や何か捕れたか?」とか
 「エサは何だ?」とか
 私たちが橋の上から笊をたらしているのをみんな見ていたのである。芳輝は一言「ミミズ」と言ったきりなかなか返事をしない。私が何か言おうとすると、ひじで突ついて喋るなという合図をするのである。まさか味噌で作ったミミズを入れているなどとは言えなかったのだろうと思う。

 雨はなかなか止まなかった。東屋の中の大人たちはだんだん静かになって、中にはぼやくものも出てきた。私たち兄弟はずっと沈黙していた。

こうして4・50分経ったころやっと雨が小降りになってきた。私たちは雨の止むのを待ちきれず橋の上に走った。二人とも下げてある笊が気になって仕方がなかったのだ。(早く上げないと魚がみんな逃げてしまう)二人とも同じことを考えていたのである。四阿で見ていた大人の一人が、私たちの笊が気になったのか後ろから一緒についてきた。

 笊を上げると、とんでもない光景が私達を待っていた。なんと、笊の縁から溢れるほどに魚が入っていたのである。この時になると雨は急激に止んで、興味あり気に笊を覗いていたその人が大声を上げて四阿の人たちを呼んだ。私たちの周りに大人たちが集まってきた。私たちは思わず顔を見合わせ、大急ぎで持って来たバケツに魚をすくいこんだ。

いつか南湖へ行ったとき、父が満州金魚と呼んでいた5センチほどの虹のように光る美しい魚(タイリクバラタナゴ)に混じって10センチほどのハヤ、鮒、川エビなどたくさんの種類の小魚が、バケツ半分ほどの水では足りなくて、たいへんな過密状態で跳ねたりしている。大人たちの感嘆の声で、すごい、すごいと大騒ぎになった。

「エサはなんだ?」
 こういう時の質問は決まっている。
 「坊や、エサはなんだ?」
大人たちが覗き込む笊の中の味噌は、長時間水ににさらされて、このとき跡形もなく溶けて流れてしまっていたのである。
 「ミミズ」
 芳輝はこの時も、一言そう答えただけで黙っていた。そして私に目配せして「帰ろう」というのである。

 帰りのバケツは重かった。バケツは二人で持って、公園の道ではなく、来るときに辿った近道を引き返すのだが、雨上がりの道はつるつるでよく滑った。起伏の激しい道で、足場になる穴に足を下ろすたびに滑って、バケツを持ったまま、何度滑り転んだか分からない。獲物の入ったバケツは何度も危うい状態になったが、絶対にひっくり返さなかった。(絶対に持って帰る)と私は心の中で反復しながら、手が千切れる程の重さと戦っていた。生まれてから今までこんなに強固な意志を持ったことがなかった。兄も同じ気持だったに違いない。

この日は夏休みの初日で、母が兄弟三人に新しい真っ白な半ズボンをおろしてくれたのだが、私たちは、滑ったり尻餅をついたり、公園を出るころは、顔も手足も完全に泥まみれとなってしまっていた。汚れて重い荷物を担っていたけれど、何か大仕事を達成したような満足感で、胸が晴れ晴れしとしていたことを今でも忘れない。誰かこのバケツの中を覗きにきてくれないだろうか、などと何度思ったかわからない。母もきっと褒めてくれるだろう。

家に帰ったとき、留守番の芳興を置いて、母もクーニャンも出かけたらしく、私たちは魚の置き場に困ることになった。こんなに魚が捕れるとは思っていなかったから、魚は空いている金魚鉢にでも入れておけばいいと思っていたのである。
 「こんなにいっぱいいるから、風呂桶入れるしかねえな」
 風呂場へ行ってみると、丁度いい具合にもう新しい水が入っている。わが家のクーニャンはいつも早々と水を入れ替えて、風呂の準備をしていたのである。

 芳輝が風呂桶の中へバケツの中身をそっくり移し変える。2・3匹斜めになって泳ぐのもいたけれど、そんなのは問題ではなかった。二人ともすがすがしい気分だった。こうして私たちはしばらくの間、魚たちが元気に泳ぎ回るのを眺めていた。眺めながら、二人ともこみ上げてくる笑いを抑えきれないでいたのである。

 このあと、私たちが芳興を連れて再び外へ出て、線路だの興安橋だのいつもの通り遊びながら、やはり魚のことが気になって帰ったとき、母とクーニャンはもう帰っていて、芳輝と私の泥だらけの姿を見ると目を剥いた。
 「なんなの?あんたたち」
 そういって絶句するのだった。
 「ちょうどお風呂が沸くころだから、早く風呂に入りなさい!」
 母は大声でそう言ったのだが、間髪を入れず、何か叫んだ芳輝の悲鳴はもっと大きかった。あー、だか、え〜だか分からない声だった。

私たち二人は反射的に風呂場へ走った。母も何事が起きたのかと、うしろからついてきた。そして芳輝が急いで風呂の蓋を取ると、そこには、風呂の水面が見えないほどにびっしりと大量の魚が浮いていたのである。
これを見た母親が再び目を剥いたことは言うまでもない。

昭和46年頃、山梨県の河口湖に橋が懸かった。この橋については風光を汚すとか、土木業者との癒着だとか、様々な物議を醸したが、本当は湖畔を周回する国道が渋滞して麻痺状態になっているのを解消するための架橋工事だった。

だが、この橋が出来たとき、私が考えていたことは、景観がどうの渋滞がどうのということではなかった。唯一つ、あのときの順天公園のように、“みそ”を入れた篭を垂らして魚を捕ったらどんなに気持がいいだろう、ということだった。それ以来、いつか篭を垂らして魚を捕りたい、そう思いながら今日まできた。なのに、有料道路で入れなかったことと、監視の目もあっていまだ何にもできないでいる。。そしてそれは、風雪35年、河口湖大橋を通るたびに、橋の真ん中で車を止めて未練がましく湖面を眺めてしまうほどに、私の、しつこくも、悲しい願いとなっているのである。




   25 海賊の宝物 

芳純はクラスの友達と遊ぶのが忙しいらしくて、この日も、映画を見に行くとか何とか言って朝からどこかへ出かけていった。確か「加藤隼戦闘隊」だったと思う。同じ題名の歌は四歳のとき国男おじさんに教わってよく知っていたから私も見たかったのだが、兄は友達と約束だからと言って一緒に連れて行ってくれなかった。結局は父にねだって後に映画は見たのだが、敵機を格好よく撃ち落すシーンばかりを憶えていて、映画の筋書きなど何にも覚えていない。ただ映画のなかでは灰田勝彦が違う唄を唄っていたような記憶がある。
 残された私たちは三人でいつものようにゴルフ場へ出かけることにした。真っ青に晴れた空と、地平線がその空に吸い込まれるような草原は、三人で遊ぶにはいつも広すぎる舞台だった。そしてこの日は特に広いゴルフ場になった。
 「今日は探検をやるぞ」
 芳輝は棒を一本持っていた。芳輝はそう言うと、どこのイタズラ坊主もそうするように、その棒を振り振り私たちの先頭に立って、まだ一度も見たことのないゴルフ場の奥のほうへ歩き始めたのだった。
 
 このゴルフ場には高い木があまりなかった。草原と背の低い灌木が殆どを占めて、現代のゴルフ場のようにクリークや深いバンカー等を配置した攻略的な設計ではなかったような気がする。数少ない上流階級の“お遊び”程度のゴルフ場だったのではないだろうか。地図の上では770ヤード四方に収まっているから、本コースならせいぜい7ホールくらいしか作れない広さだ。父の話では、それでも18ホールあったというから、それならショートコース以外考えられない。むろんクラブハウスのようなものも無かった。

探検は楽しかった。私たち兄弟3人は、鼻歌など歌いながら、灌木の間をあっちへ歩いたり、こっちへ歩いたり、どのくらいゴルフ場の中を歩いたかわからない。あるいはゴルフ場をとび出して歩いていたのかも知れない。もうその頃は兎やリスに出会っても、慣れてしまって追いかけることもしなくなっていた。

こうしてどのくらい奥まで来たのであろうか。ふと見ると、一本の灌木の影に隠れるように、きれいな模様が見えるのである。近づいてみると、それは赤い生地に様々な刺繍を施した美しい布で、高さが私たちの背丈ほどもある細長い箱を包んでいるものだった。
 「なんだ?こりゃあ」
芳輝が訝しげに近づいてゆく。
 「なに?」
 「海賊の宝物かも知れん」
 芳輝は以前、海賊の宝物を絵本で見たことがある。その絵本の冒険少年のように、自分がすごい宝物を発見したと思ったのだろう。とはいっても、こんな海もないところに海賊が出るはずもないのだが。
 芳輝が布をめくるとその下に真新しい木の箱が出てきた。箱の蓋の部分が丁度私たちの目の高さにあって、二人は期待に胸をときめかせてその蓋を持ち上げたのである。

蓋には釘などは打ってなく、簡単に持ち上がった。プンと変な匂いがして、その隙間から見えたものは、真っ赤な着物を着て横たわる人間の、真っ白な顔だった。一瞬だが、その下ににもう一つ顔が見え、さらにその下にも同じものが重なっているように見えた。
 「うぎゃー」
 芳輝が、持っていた棒を放り投げ、ものすごい悲鳴を上げて、もと来た方向へ走り出した。悲鳴も大音響だったが、その逃げ足の速さは信じられないものだった。私は何が起きたのか一瞬分からす、その大音響に体が凍り付いてしまった。芳輝が逃げながら大声で
 「うわーッ、死んでる。人が死んでるー」
 そう叫ぶのを聞いて驚いて反射的に逃げようとした。だが、足がもつれてどうにも動かないのである。走ろうとすると、なぜか足が空中に浮き上がったようになり、地面を踏んでいる感覚がないのである。後ろに立っていた芳興は、そんな私たちの慌てふためく姿に、びっくりしてパニックを起こし、顔を引きつらせて、私たちの後ろから必死で追いかけ来るのだった。

芳輝は“まっくら逃げ”に逃げてしまい、灌木の影に姿が見えなくなった。私は私で、何に躓いたわけでもないのに、ばったりと前につんのめり、草の中に頭から突っ込んでしまった。そこへ芳興が走ってきて突然大声で泣き出したのである。

それからどれくらい歩いただろう。私が芳興の手を引いて、やっとの思いで線路のきわまで戻ったとき、芳輝がそこに立って待っていた。芳輝も私も、そして芳興の泣き顔も完全に引きつっていた。私たちは肩で息をしながら、無言のまま家に帰ったのである。このときの静寂は実に不気味なものだった。

家でこの話を聞いた母は、急に立ち上がると私達を台所へ引っぱっていき、手を洗わせると台所の薬箱から梅肉エキスのビンを持ち出してきた。そして3人の子供に無理やりにそれを舐めさせるのだった。私は大好きな梅肉エキスだったからご機嫌でそれを舐めたのだが、芳輝と芳興は、生まれてはじめて舐める梅肉エキスの酸っぱさに、顔をしかめていたの思い出す。

その頃大陸では、コレラや腸チフスなどの消化器系の伝染病が流行していて、満人がこれによく感染した。日本人社会と違って、充分な医薬品も病院もない彼らは、一人感染するとすぐ蔓延して大勢の死者を出す。
 彼らはまとまった死人が出ると、一つの棺桶に2人、3人と重ねて入れて埋葬する習慣があった。ただ、埋葬するのは上層の人で、下層では風葬といって棺桶をそのまま野ざらしにする風習もあったらしい。

当時4歳だった芳興も、その時のことをうろ覚えに憶えていて、何十年経った後にも、私たちはこのときの怖かった話をしては苦笑いする。
 母は、棺桶に複数の死人が入っているのを聞いて、直感的に伝染病のことを考えたのだろう。そして梅肉エキスが、コレラやチフス、赤痢などに、特効的な殺菌力のあることを知っていたのである。





  第26話   キリギリス

   1

 夏休みも半ばを過ぎると、線路脇の土手や、ゴルフ場のあちこちにススキが伸びてきて沢山の群落ができた。私が安達街に来たころは、ゴルフ場の中にはススキは殆ど生えおらず、ススキは専ら線路の土手と決まっていた。
 戦争が激しくなって、ゴルフ場の手入れどころではなくなっていたのだろう。ススキは人の手の入らない場所を巧みに探して根を張ってくる。

そのススキの中に沢山のキリギリスが発生した。元来虫の多い野原で、真夏のキリギリスから始まり、季節の移ろいに添って、主役が草ヒバリになり、ウマオイ、鈴虫になり、寒くなる頃は蟋蟀(こおろぎ)の合唱になって終るのが常だった。

夏休みの間、このキリギリスを狙って線路の周辺にはよく子供たちが集まってきた。今のカブト虫がそうであるように、ここではキリギリスが子供の憧れの友達だった。キリギリスは云わばバッタの親玉というか、一匹で子供の手のひらいっぱいになるほど大きくて、捕まえたときの充足感が抜群によかった。飼育も実に簡単で、虫籠の中に真桑瓜か西瓜の食べかすを入れておくだけでよかった。
 キリギリスは非常に敏捷で、年端のいかない子供には捕まえるのが難しい虫だったけれど、子供たちが遊ぶ真昼間に、ことさら鳴いたから、捕まえて遊ぶにはうってつけの相手だったのである。
 ただ、そうは言ってもこの野原は限りなく広大で、子供たちも洪水のように押しかけて来たわけではないから、虫をとる姿はいつもまばらで、普段よりほんの少し人影が増える程度だった。

 この夏が満州での最後の夏になることなど微塵も知らず、芳輝と二人、ただ目の前の夢を追って、なんの疑念も持たず順天公園へ通った。むろん目的は魚捕りだった。ただ、最初の日、風呂桶いっぱいに魚の出し汁を作ったと、母親に大目玉を喰らい、それで済んだと思っていたら、しばらくして、台所の味噌壷が空になっているのがばれて今度はかんかんに怒られて、味噌が持ち出せなくなってしまっていた。だから、その後魚はあまり取ることができず、見知らぬ人達の釣りを見物することが多くなっていた。「釣り道具が欲しいなあ」と芳輝はしばしばつぶやいていたが、母親にそれをねだることはなかった。芳輝は子供の頃から概してものを人にねだらない、そういう性格だったのである。

 そこで芳輝は順天公園を諦めて、以前からクラスの友達に誘われていたキリギリス捕りに矛先を変へ、得意のゴルフ場へ復帰したのだった。
 キリギリス捕りに共同作業は要らない。一人が一匹ずつ取るほかないから、芳輝は、どちらかといえばのろまな私をお供に誘わなかった。それでも母は二人にお揃いの虫籠を買ってくれて、それはそれで私に新しい夢を抱かせてくれるのだった。

 私はキリギリスの捕り方など知らなかったから、仕方なく虫籠はそのままにして、芳興を連れてぶらぶらとゴルフ場へ出かけたのである。
 いつものように線路へ降りようとすると、その土手の少し離れたところに、小学校の上級生らしい少年が3人ほど固まって中腰になり、何かを覗いている。
 (なんだろう)私が好奇心に駆られてそちらへ近付こうとすると、中の一人が私たちに気が付いて、少し怖い顔をして、“来るな”の合図をするのである。
 見ていると一人の少年が50センチほどの細い棒をススキの中に突っ込んでいて、それをそーっと引っ込めにかかっているのだ。そして中の一人から「あ、逃げた」と声が漏れて、ふいに緊張が緩み、固まっていた少年たちがほどけて動き始めた。南の方から、真っ黒な煙を吐いて汽車が近づいていたのである。

 見ると、少年達はそれぞれ竹ひごで出来た虫籠を持ち、持っている棒の先には長さ10センチほどの白い葱が突き刺してある。さっき出がけに兄がこしらえていたのと同じものだ。汽車が通過すると彼らは一人を残して線路を渡り、ゴルフ場へ入るとそれぞれ思い思いの方角へ散っていった。

 汽車は線路近くで鳴くキリギリスを黙らせたが、それはほんの一瞬で、この広い野原いっぱい、再び何千というキリギリスの大合唱が始まった。上下縦横、それはじりじりと降り注ぐ太陽の光と混じり合い、空気をゼラチンのように固めて、時間さへ動きの鈍いものにしているように見えた。最後の少年の白い帽子の動きが止まった。

 私はどうしてもキリギリスを捕まえるところを見たくて、汽車の通過する間に、いつの間にかその少年にかなり接近していたのである。 
 「君は桜木小学校?」
 少年が不意に声をかけてきた。優しい声だった。
 「うん」
 「そうか、じゃ、僕とおんなじだ。 キリギリス、捕まえたことあるの?」
 私は首を横に振った。
 「じゃ、教えてやろう、ここで静かにしてて」

 少年はキリギリスの鳴き声を頼りに居場所を突き止めると、猫のような足どりでそこに近づき、棒に刺した葱をそーっとキリギリスの口元に近づける。するとキリギリスは鳴くのを止めて葱に乗り移り、身体を回して葱の切り口からそれを食べ始めるのである。キリギリスは葱が自分を捕まえる罠であることなど全く気が付いていない。
 少年はキリギリスの乗った棒を少しずつ動かして、それを虫籠の中へ運ぶ。私は邪魔しないよう息を殺して、彼のすることを一部始終見ていた。それは神経を集中して、緊張する一瞬だったが、私には随分あっけなく虫が捕まるのが意外だった。
 「ね?」
 少年はそういうと、私たちを振り向いて、にこっと笑った。
 緊張の糸が切れて、私も思わず笑った。説明は要らなかった。いつの時代でも、子供たちの遊びはこんな風にして伝えられてゆくものなのだ。こうして優しい少年はゴルフ場の草むらに消えて行ったのである(写真)。

 (あれなら、僕にも出来る)私は胸に雲のようなものが湧き上がってくるのを感じていた。芳興の手を引いて急いで家に帰ると、手ごろな棒を探して母に葱をねだった。虫籠を持って、すぐに線路の土手に取って返すと、さっきの少年がしていたように、鳴いているキリギリスを探して、目的の作業に取り掛かったのだった。早くやってみたくて仕方がなかったのである。

  キリギリスの鳴き声は非常に大きい。だから、どこにいるかすぐに見当がつくのだが、身体の色合いがなぜかススキとそっくりで、一寸目には周囲と区別がつかない。それに近づいていくと敏感に外敵を察知して鳴くのをやめ、すぐに逃げてしまうのである。しかもこちらには芳興という荷物がついて、無神経に足音を立ててしまうからなおさら勝負にならない。

 それでも、キリギリスの中にものんき者がいると見えて、私の差し出した葱に食いついてきた奴が遂に現われたのである。
 その瞬間のうれしさは口に出しようがない。いま自分の葱をかじっている大きな虫は、あの憧れのキリギリスだ。
 (これを虫籠に入れさえすれば……)私はふいに胸がドキドキしてくるのを感じていた。そして、さっきの少年がやったように、そろり、そろりと棒を引っ込め始めたのだが、ここで重大なことに気が付いて、どうにも不安になってきた。

 (棒が長すぎるだろうか?)この不安は的中した。キリギリスの止まった葱を、左手に持った虫籠へ入れようとするのだが、いくら両手を広げても、棒がほんの数センチ長すぎて、キリギリスを籠に入れることができないのだ。キりギリスは葱の上でもぞもぞとうしろに向きを変え、一瞬私を見た。そして空に向かって跳躍した。
 大きな羽音を残して虫は逃げてしまい、私はまた始めからやり直しをする羽目になった。2度目は虫はなかなか葱に食いつかなかった。だが、それは不意にやってきた。

ふと見るとすぐ目の前に一匹のキリギリスが舞い降り、今にも鳴きだす準備をするかのように足場を定めているのである。私は咄嗟に棒を棄て、右手を出してキリギリスに飛び掛り、捕まえてしまったのだ。
 (なあんだ。バッタと同じじゃないか)バッタならこれより小さいけれどいつも捕まえている。葱などなくてもいいのだ。
 私は手からはみ出すほどの充実感を噛みしめていた。そして、どんな獲物が入っているのかそーっと手の中を覗こうとしたその時である。親指の先に強烈な痛みを感じ、思わず、この獲物を放り投げてしまったのである。

 見ると、私の右手の親指の腹はキリギリスに見事に食い切られて、その周りにキリギリスが口から出したと思しき珈琲色の液体がベタッとくっついていた。そしてぱっくりと割れた傷口から見る見る真っ赤な血が噴き出してきた。何が起きたのか私にはすぐには理解できないでいた。まさかバッタが人に噛み付くなど私は考えたこともなかった。それをされないように、わざわざ葱を使って捕まえていたのだ。こうしてキリギリスが危険な相手であることを、私はその時初めて知ったのである。


   (2)

 
その日遅くなって、指に包帯をして遊んでいると芳輝が意気揚々として帰ってきた。虫籠にキリギリスが一匹入っている。他の少年がやるように、葱でやっと一匹捕まえたのだという。芳輝はうれしそうだった。早速母から胡瓜をねだり虫籠に入れて、観察を始めたのだった。
 夜になってからキリギリスが鳴き出した。ギ、ギーッ、チョンとその鳴き声はやたらと大きい。昼間の野原でもかなり大きいのが、真夜中に狭い座敷で鳴くのだから、これはたまらんと父が夜中に虫籠を窓の外へ吊り下げてしまったほどだった。
 翌朝、芳輝は早起きになった。キリギリスが窓の外に出されているのを見つけると、一人ぶつぶつ言いながらすぐ虫籠を部屋の中に戻す。芳輝にしてみれば、それはかけがえのない宝物だったのである。

 この日も芳輝はキリギリスを捕りに行くという。といっても空いている虫籠は私のものしかないから、そのよしみで今度は私もついていったのである。
 兄はキリギリスの捕り方がうまかった。たった一日でコツを覚えたらしく、葱を使って上手に虫籠へおびき入れ、午前中のうちに4匹も捕まえてしまった。
 こうしてわが家のキリギリスは二つの籠に都合5匹が大合唱をすることになった。キリギリスは一匹が鳴きだすと、それを合図に他の仲間も一斉に鳴き出すらしい。

 これはもう涼を呼ぶ、などという風流な代物ではなかった。母も始めのうちはキリギリスを捕まえた芳輝を褒めていたのだが、夜、夜中まで鳴き続けるキリギリスにいささか参ってしまったらしく、終いに頭を抱えることが多くなった。
 「お前ねえ、この鳴き声何とかならないの?母ちゃん頭が痛くて病気になっちゃうよ」
 母はついに芳輝にそう言った。もう懇願するしかないと思ったのだろう。それから同じことを何回か芳輝に言ったと思う。
 父は夜中に虫籠を窓の外へ出す。すると翌朝、芳輝がそれを部屋の中へ戻してしまう。そんなことを2・3日続けたのである。

  この兄は周囲のそんな様子もどこ吹く風で、このキリギリスが本当に大事な宝物と心得ているようだった。私がたまに虫籠を覗くと、そばに付ききりで悪戯をされないよう監視しているし、餌などもって行くと、全部自分で世話するといって猛烈に怒って、私に絶対に手を出させなかった。

 こんなキリギリス騒ぎが始まって5日くらい過ぎたある朝、母がアサイ医院へ行くといって家を出たまま帰らなかった。昼近くなっても母は帰らず、クーニャンは私たち兄弟のご飯の支度や芳直のミルク、さらに愚図って泣き出した千鶴子の世話まで一人でやる羽目になり、てんてこ舞いの様子だった。

 昼ごはんが終わるころ父が帰ってきた。昼間家に帰ることなど滅多にないことだった。
 「お母さん、入院したからな。みんな良い子にして待ってるんだぞ」
 子供たちは全員黙ってしまい、何が起きたのか父の顔をいっせいに見た。
 「なんの病気なの?」
 芳純が沈黙を破った。
 「伝染病だ」

 伝染病と聞いて上の兄弟3人は沈黙したまま固まった。その頃子供にとってこんな恐ろしい言葉はなかった。デンセン病という名前の怖い病気があり、これにかかると大抵の場合死ぬものとみんな思っていたからである。
 (お母ちゃんが、デンセン病……)その言葉は衝撃的だった。私はどうして良いか分からなかった。

特に芳輝は黙り込んでしまい、目だけ大きく見開いて瞬きもせず立ち尽くした。そのうちに一人で座敷へ入って出てこなくなった。相変わらず騒々しく鳴き競うキリギリスの声が聞こえている。
 こうしてどのくらい時間が経ったのだろう。しばらくして芳輝が両手にキリギリスの虫籠を下げて二階から降りてきたのである。
 「どこへいくの?」
 私が聞いても芳輝は答えなかった。奥歯を噛みしめて何も言わず、靴を履くと虫籠を持って、表に出て行くのである。私は急いで芳輝の後から外へ出たのだが、何故か兄のそばへ近づくことができなかった。芳輝の後ろ姿にだれも近づけないような雰囲気が漂っているからだった。私は仕方なく20メートルほど離れてついて行く他なかったのである。

 芳輝は線路を越えてゴルフ場へ入ると、そこでうずくまり、虫籠の口を開けた。
 (何するんだろう)私が訝しく思って見ていると、どうやら芳輝はキリギリスを逃がそうとしているらしいのである。たしかに、あんなに大事にしていた宝物を逃がしているのである。
 (せっかく捕まえたのに……)と私は思う。兄がなんで大事なキリギリスを逃がしてしまうのか、私には分からなかった。
 一匹、また一匹とキリギリスは逃げ去り、最後の一匹が逃げてしまったあとも、芳輝はそこにうずくまり、長い間キリギリスの飛び去った空を見つめているのだった。
 「ごめんね……」
 呟くような小さな声を、私は確かに聞いた。それはキリギリスではなく母に向かって言ったものに違いなかった。どうやら母の病気が自分のせいだと思っているのだ。

 無言だった。芳輝は家に帰ると自分のランドセルを抱えて二階に上がり、中のものを引っ張り出して勉強を始めたのである。
 こんなことは今までに一度もなかった。去年母親に勉強の特訓を受けて以来、芳輝が机に座って勉強するところなど一度も見たことがなかった。宿題さえ、みんな私にやらせていたのである。それが今、どういうわけか自発的に座敷の座卓に座ってノートを拡げているのだ。

 私はしばらく弟たちの相手をして遊んでいたが、しんと静まり返った二階が気になって、行ってみると、芳輝は座卓に突っ伏して静かに寝息を立てていた。ふと見ると、顔の下に敷かれたノートは、涙でびっしょりと濡れていたのである。


   (3)

 この夜珍しく雨が降り、朝まで弱い雨の音が聞こえていた。キリギリスはもう鳴かず、静かな夜だったが、母のいない家は 魂が抜けているような寂しさに包まれ、まんじりともしなかったことを覚えている。

 あとで分かったことだが、母は腸チフスだったということだ。アサイ医院から連絡を受けた父が、急遽、関東局のつてを頼って陸軍病院の一室を確保してハイヤーを回し、入院させたのだという。
 いつも子供たちの、そういう腹の病気を心配して、梅肉エキスや正露丸など様々な薬を準備していた母だったが、自分が感染するとは思っていなかったらしい。幸い処置が早かったので、大事には至らなかった。

 芳純が、父から病院への道順や電車の停留所など、紙に書いてもらったのはそれから4・5日経ったころだった。そこで私たちは長兄に引率されて母親の病気見舞いに行くことになったのである。
 芳純、芳輝、私、芳興の4人の一団は一列に並んで電車の停留所へ向かった。みんな母に会えるのがうれしくて相当うきうきしていたと思う。電車は二駅ほどで興安大路に出る。そこでの乗り換えにかなり時間がかかったが、そんなことは問題ではなかった。芳純は仰々しく書いてもらったメモを見ながら「あ、ここだ、ここだ」などと引率者の責任を果したのだと思うが、そこから乗り換えて西のほうへ、やはり二駅ほどであっけなく陸軍病院に着いてしまった。家を出てから1時間ほどたっていた。

  母はベッドの縁に腰掛けて待っていた。病室へ入るなり、真っ先に母に飛びついたのは芳輝だった。母は芳輝を胸に抱いて「よく来たね」と一言呟いた。見ると芳輝は泣いているのである。

 母は元気そうだった。私たちはしばらく談笑し、母の温みに時を忘れた。病室の真っ白な壁に、カーテン越しの光が差し込んでこの家族を明るく包んでいた。ここで見るかぎり、やがて訪れる苦難の影などどこにもなかったのである。
 「明日、退院だからね」
 母はうれしそうに言った。

 病院の門を出て前をよく見ると、見慣れた風景が広がっていた。私たちは誰言うともなしに道路を渡り、みんなでその風景の方へ歩き始めた。芳輝が突然大声を上げた。
 「ここはゴルフ場じゃねえか?」
 「こっちは競馬場だ。それならこりゃあゴルフ場だなあ」
 芳純がしたり顔で言うのである。 
 「よし、こっから歩いていこう」

 私たち四人は元気付いて、家のある方角へ闇雲に歩き出した。見慣れた場所も通り過ぎた。いつもの線路端へ着いたとき、芳輝が笑いながら口を開いた。
 「なあんだ。こっちを来たら、もう着いちゃったじゃないか」
 病院を出て、わずか10分しか経っていなかった。普段ゴルフ場など入ったことのない父が、病院がそんな近くにあるとも知らず、電車で行く子供たちが迷子にならぬよう、懇切丁寧に乗り換えの停留所などメモしてくれたのだろう。私は改めて病院の方角を振り返ってみた。そこにはいくつかの建物が遠くかすんで、真夏の陽炎にゆらいでいるだけだった。
 「明日、かえって来るぞ」
 芳純が弟たちに念を押すように言った。 みんな笑っていた。とにかくやたらと嬉しかったのだ。

 紺碧の空を袈裟がけに、飛行機雲の残影が漂い、空の深さを測るように鳶が舞った。日差しがやや傾いていた。様々な想いを残し、私たちの夏が終ろうとしていた。
 こんな私達兄弟をを慈むように、ススキの群落の中で何千というキリギリスが鳴いていた。その鳴き声は家路につく私たちの耳にいつまでも聞こえていたのである。




   第27話 
 防空壕異聞
 

 私の家の北隣に小平さんという人が住んでいた。その家の子供は芳興と同じ歳で名前はたしか『トシオ』ちゃんだった。二人はよく表で一緒に遊んでいた。私も子供だったが、弟たちはもっと子供で、私はその二人の遊びには殆ど加わったことがなった。いつも兄たちのやることを見ていたから、小さい子のすることは馬鹿馬鹿しくて一緒にいるだけでも恥ずかしかったのだ。

 話は少しさかのぼるが、桜木小学校へ入学して間もない頃のことである。その日も午前中だけの学校を終えて家に帰ると、弟とトシオちゃんが二人の家の境目あたりの歩道に出て遊んでいる。見ると何やら大きな箱を、道路を滑らせて遊んでいるのだ。(何の玩具だろう?)と私が近づいてみると、それは赤や青のきれいな石を散りばめた宝石箱で、それも間違いなく見覚えのある、母親の大事な宝石箱だった。

 母は指輪やネックレスなど高価な宝石を沢山持っていた。私の父は、古めかしい仏像や年代ものの焼き物など、をいろいろ買い集めるのが好きだったようで、家の廊下や階段の踊り場などに、蒐集家が見れば垂涎の的となるような大きな壷や動物の置物などがいたる所に飾られていた。訪れる客がよく立ち止まって、あれやこれや何か薀蓄を傾けながら見とれていたものである。中には、菅井さんが持ってきた、相当古ぼけた等身大の泥人形など、いくつもあって、父はそれが特に自慢のようだった。ただそれらは芳輝のいたずらの恰好の餌食になって、大半が破壊されてしまった。

そんな父が、母に持たせるものは特別で、大きな宝石のついた指輪などを買って来きて、母に「これ一つで家が一軒買えるぞ」などと言いながら渡していたのを見たことがある。私の母は、そういう宝石類を身につけるのをあまり好まなかったらしく、普段は殆ど使わなかった。

けれども母の宝石箱には、そういう指輪や首飾りがたくさん入っていて、時折出しては眺めるのは好きだったようである。中でも母のお気に入りは、2センチ近い楕円形の美しい翡翠の指輪で、その透き通った深い緑色は、私にさえたまらない郷愁を誘うものだった。翡翠が私をとりこにする理由は簡単で、大好きなうぐいす豆と同じ色だったからである。
 母は、「困ったときはこれを売れば助けになるからね」などといっては、いつもそれを厳重にしまっておくのだった。事実、終戦後困っているときに、僅かばかり持ち帰ってきたそれらの宝石類を小出しに売っては生活の足しにしていたのである。

 その宝石箱を芳興が持ち出して、こともあろうに中身を道路に放り出して、玩具にしているのである。二人はそれを自動車の玩具か何かのように、歩道の上を“走らせて”遊んでいるのだ。哀れな宝石箱は、美しい飾りがすっかり剥げ落ち、長さ30センチくらいある箱の側壁は無残にこすれて、傷だらけになってしまっている。
 私は早速母親に進駐に及び、母親が「あれ、困ったよ」などと言いながら、あわてて飛び出してきて宝石類を拾い集め、弟からその箱を取り上げたのだった。普段鷹揚な母も、このときばかりはさすがに慌てたようだった。

 この弟は、何でも分解する芳輝と違って、家のものは何でも持ち出す習性があった。大きな置物は無理だったけれど、持ち上げられる手頃なものは見境なく持ち出して玩具にしてしまうのだった。持ちだすのはいいが決して持ち帰ることがない。それをいつも私のせいされ、母からよく説教された。犯人が芳興だと分かっても「お前がよく見ていないからだ」などと言って結局叱られるのはいつも私だった。   

私は母に言われて、仕方なく二人を連れて線路の方へ遊びに出かけた。この線路の脇には、線路工事の土盛りをするために掘った窪地が、線路に沿ってどこまでも続いている。
 この窪地には春先ということもあって、すすきや葦などという背の高い草はなく、芝草のような、踏んで歩くには丁度いい草が何種類も生えていて、このときは、その中にいちめんにタンポポが咲き、線路の見えなくなる遥か彼方まで黄色い帯が延びていた。

 こういう花を見つけると子供のやることは決まっている。「わあ、花だ、花だ」などと叫びながら、花を摘み始めるのである。
 見ると、10間ほど先に、子供と思しき人が一人うずくまっている。見ると、子供はむこう向きで、うずくまったズボンのうしろがぱっくり割れ、そこから尻だけ出して“うんち”をしているのである。

 その頃満人の子供は、こういう“ケツ割れ”ズボンをみんな穿いていた。親が大小便をさせてやるのに、いちいち脱がせるのが面倒だからこうしたのだそうだが、親の手から離れても、子供たちはこの“ケツ割れ”ズボンをかなり大きくなるまで穿いていた。満人の店ではこういうズボンを売っているのである。時には、普通のズボンの尻を、はさみで丸く切り抜いて、尻を丸出しのまま遊んでいる子もいっぱいいた。真冬の厳寒の時期でも、子供はこういう恰好をさせられていたから、さぞ寒かっただろうと思う。

 うずくまっている子供の尻から、大便をするあの聞き覚えのある嫌な音が聞こえてきて、私は思わずそこから目をそらし、摘みかけているタンポポの花に目を落とした。すると私の手にくっつくように、見覚えのある形のものが落ちているのである。今まで気が付かなかったけれど、表面が地面と同じような色に乾いた、それは間違いなく人間の“うんち”だった。
 私は思わず手を引っ込めてあたりに目を凝らした。するとどうだろう、私の立っている所も、弟たちのいる所も、びっしりと“うんち”がしてあるのである。色が地面と殆ど同じで、しかも用を足したあと彼らは尻を拭くことがないからちり紙の類も落ちておらず、一見しただけでは分からないが、乾いたのがあり、半渇きのものがあり、よく見ると、今したばかりの新鮮なやつもあって、それは延々とうずくまっている子供の方に続き、さらにその向こう遥かに続いているのに違いなかった。
  「ぅわー、クソだっ」
と私は思わず声を出してその場所を飛びのいた。そして弟たちを呼び集めると線路へ逃げ登ったのだった。

 満人の住まいには便所というものがない。田舎へ行けば、放し飼いの豚などがいて大便はみな食ってしまうのだが、この街なかでは豚の放し飼いなどもってのほかと、禁止されていたから、彼らは仕方なく“野ぐそ”をするしかないのである。それも、雨で流れてこないよう、低いところを選んでするのである。そのため、少し窪地になっているところがあると、大抵うんちがしてある。そういえば、学校の近くの市場の脇の窪地にも、うんちがたくさんしてあるのを私はしょっちゅう見ていた。
 母がいつも口癖のように「線路で遊んではいけません」と言うのは、このことだったのか、と、その時は私なりに納得したのだったが、母の考えていることは全く違っていたのである。

 汽車にはみんな便所がついている。汽車の便所というのは、下が素透しで、座ると下に線路が見えるのである。時には便を落とす穴から風が吹き上がってきたりすることもあるのだ。これは、汽車が人の便を垂れ流していることを如実に示していて、線路の上を歩くことがいかに不潔極まりないかを意味している。しかも、チフスだの赤痢だの、こういう病気持ちほど便所へ行く回数が多いのだ。そういう便が乾いてこなれると風に乗って空中を舞う。母はそのことを心配して、線路で遊ばないよう口を酸っぱくして言っていたのである。だが、そんなことを子供の私が知る筈もなかった。満人のうんちが汚くて線路へ逃げ込んでも、『一難去ってまたうんち』、不潔であることに変わりはないのである。。

 こんなことがあって間もないある晩のことである。私の家に近所のおじさんたちが10人くらい集まってきてなにやら相談を始めたのである。
 なんでも、役所からの命令で、どこかの空き地へ防空壕を掘りなさいというようなことだった。一軒で一つというのはたいへんだから、2・3軒ずつ一組になって、協力して作るという、その組分けの相談だった。
 そして結局私のうちは両隣の三軒で1個の穴を掘ることになった。防空壕の大きさは縦1間、横1間半、つまり畳三帖くらいの大きさということだった。

 防空壕が完成したのはそれから程なくのことであった。いつもゴルフ場へ遊びに行く途中の道の脇で、隣のおじさんやおばさんたちが、朝早くからシャベルやそのほかいろいろな道具を持ってきて集まっていた。この空き地は結構広くて、父たちのほかにもいくつか人だかりがあって、防空壕を掘っているようだった。
 日曜日で、私達兄弟は大人たちが作業するのを近くで眺めていたものである。その休憩時間にもらって食べたパンはうまかった。なんでも隣のおばさんが自分でこしらえたという蒸しパンだった。

 午後の3時頃穴掘りが終った。大人たちはその天井になるところに何本も角材を渡し、その上にアンペラのようなものを敷いて上に土をかぶせ、空から見られても分からないようにした。 出入り口は人一人通れる位の幅で、土を上手に削って階段が作られていた。

 子供たちは出来上がった防空壕を前に、この面白そうな遊び場に入りたくてうずうずしていた。みんな同じことを考えているのだ。
 見ていた子供たちは、われ先にと中に入り、見聞に及んだのだが、穴の中は真っ暗だった。畳三枚分の広さがあったかどうか分からないが、入ってみると大人の背丈ほどの深さのある、結構広い穴だった記憶がある。だが、中が真っ暗だと分かっていたから、その後防空壕に入って遊ぶことはなかった。

 夏が来て、魚のまる茹で事件やら、母の入院やら、相変わらずの大騒ぎの夏休みが終わり、春先に掘ったこの防空壕を使って防空演習をやったのは、二学期が始まって少し経った頃だったと思う。日曜日で、この日朝10時、敵機来襲の合図とともに、みんないっせいに防空壕へ避難するというのであるが、私の母などは、持って行くものや着てゆくものを、前の晩からみんな支度していた。
 その中にブリキのバケツが二つあって、(何でバケツなんだろう)とそればかりが私の記憶に強く残っている。

 やがて「敵機来襲!」という声がどこからか聞こえてきて、私の父母も両隣の人達もいっせいに表へ飛び出し、以前作っておいたあの防空壕へ向かって走ったのである。私も大人と一緒に遊べるこの“空襲ごっこ”に、大喜びで走っていった記憶がある。このとき隣のおばさんもバケツを持っていて、(なんでバケツなんだろう)と私はもう一度思ったものである。

 ものの1分もしないうちに防空壕に到着し、先頭を切って走っていた隣のおじさんが、穴の入口から中へ駆け下りたその瞬間である。
  「うわーっ」
 断末魔のような悲鳴とともに、おじさんが穴から跳ね上がるように飛び出してきた。みんな一斉に立ち止まった。

 「ダメだ、ダメだ。なんだこの臭いは」
 その時、アンペラ天井の真ん中に小さな穴が開けられているのに気づいたおじさんが、
 「なんだ?、この穴は」
 などと言いながら、突如、防空壕の中が見えるように、土をかぶせてあるアンペラをめくってしまった。その風に巻き込まれ るように、無数の蝿がいっせいに舞い上がった。

 みんな何事が起きたのかと中を覗き込んだ。そして、私たちがそこに見たものは、防空壕の底を埋め尽くす大量の“人糞”だった。それは発酵して所々に泡さえ吹き出して、何百という蛆虫が蠢き、おぞましく、 強烈な臭いを発散していた。
 満人が、天井に小さな穴を開け、そこから下へ“うんち”をしていたのだ。彼らから見れば、こんな清潔で、便利な排泄場所はなかったに違いない。つまり、なんのことはない、父たちは丸一日を費やして、一生懸命、彼らの巨大な『クソ溜め』をこしらえていたのである。

 「おい、演習でよかったなあ」
 隣のおじさんが言った。
 「これが本物の空襲なら、向こう三軒、クソまみれだ」

  彼らは大便を豚に食わせるだけではない。こうして屋外に溜めた人糞が、零下30度にもなる真冬に、こちこちに凍るのを待って、これを細かく砕いて畑に撒く習慣があるのである。これを凍糞(タンプン)といって、最高の肥料になるのだという。一説によれば、氷温が低いので寄生虫卵も完全に死滅するのだそうだ。臭い話だが、これも中国四千年の知恵というのだろう。
 この地に日本人が来る以前、彼らはこのようにして凍糞を作り、農耕をしていたのである。窪地に大便をする風習がそれを物語っている。
 この風習を野蛮だといって笑うものがいた。 だがよく考えてみると、日本では昔から畑の隅に穴を掘って肥溜めを作り、しかもそれを生で畑に撒いて肥料にしていたわけだし、もっと時代を遡れば、江戸近在の百姓が、大八車に積んだ野菜などと交換に、江戸の庶民の下肥を集めに廻ったという。人糞を肥料にすることなど昔は当たり前だったのである。

昭和50年頃、仕事で信州のある旧家へ伺っていたときのことだが、どうにも大便がしたくなって便所を借りたことがある。
 その家の主人は、「うちの便所は古いよ。それでもよかったら使っておくんなさい」と言いながら、便所へ案内してくれた。
 そこは家の一番奥で、何と10畳もある広い畳の部屋だった。見ると、部屋の中央のそこだけが板張りで長方形の、それと思しき穴が二つ並んで開いている。それは“金隠し”も何もないただの穴で、たぶん、そこへしゃがんで用を足すというのだろう、穴の中から汲み取り便所特有のあの匂いが強烈に匂っているのだった。穴が二つ開けてあるのは、家族が多かった頃の名残りなのだろう。その多勢の家族が、朝の”ラッシュアワー”に、ここで並んで大便をする姿など、想像するだけで妙な気分になってくる。
 むろん部屋の下は巨大な“肥溜め”になっており、この農家ではこの肥溜めから汲み取った下肥を畑に撒いていた。
 日本の農家は30年前まで“くそ溜め”の上に家を建てて住んでいたのである。農家に限らず、東京の下町だって規模の違いこそあれ、同じだった。 家の中にクソ蝿がぶんぶん飛び回るのが良いのか、露天に便所を作ってそっちで用を足す方が合理的なのか、そのようなことを議論しても何も得るものはない。家の中に便所のあることが、満人より文化的だなどと思うのは思い上がりというほかはない。
 いうなれば、日本人に、“凍糞”を作る文明をプウカンチンなどと言って嗤う資格などないのである。

 凍糞については、石炭採堀時代の、父の愉快な失敗談もあるが、それはまた機会があったら書くことにする。 ここに住む満人がこの防空壕を便所にしてしまったのは、日本人への“ツラあて”の意味もあったのだろうか。いや、そういう穿った見方は惨めになるからやめよう。この事件は彼らの習慣を知らない日本人が受けた天罰だったのだと思う。そして、その罰を下した神様は、天上で大笑いしていたのではなかろうか。


 28  桜木在満国民学校(2)

1年生担任の先生方
左から 中村節子 鈴木房子 満吉富美子 
持丸サナミの各先生

写真提供は滝本(旧姓中村)節子先生

満州では秋の気配が早い。2学期が始まる頃にはあのコスモスの花畑はこの年も満開になって、学校から帰る途中、私はよくそこで道草をした。快晴の空に下で、色とりどりの花に埋もれて、あの時オリアに教わったコスモスのプロペラを、花の色を変えては放り投げた。空に向かって何度も何度も、そのたびにオリアのことを思い出し、胸にこみ上げてくる波のようなものを噛みしめて、いつまでも飽きることはなかった。

そんな道草を食っていたある日、私より遅く学校を終えた芳輝が通りかかった。芳輝は私を見つけると早速コスモスの中へ入ってきた
 私は芳輝ににコスモスのプロペラのやりかたを教えてやろうとするのだが、芳輝は「うん、うん」と頷くだけで、私の話など何も聞こうとはせず、花の中で周囲を見回している。花に興味はないらしい。

 私は小さいときから花が好きだった。花だけではなく、野の草や畑の作物など、細かい命の仕組みを観察するのが好きだった。だが芳輝は笊で小鳥を捕まえたり、魚を捕ったり、そういう殺生が好きで、そのへんが私と少し違っていた。
 「こりゃ、いいな。隠れ家を作ろう」
 芳輝はそう言うと奥へ進み、コスモスを踏み敷いてちょっとした広間を作ってしまった。やはり考えていることが私とは違うのだ。
(花を踏みつけていやだなあ)と私は思ったのだが、芳輝の作った部屋も面白そうで、そこへ入って、地面にびっしりと敷き詰められたコスモスの葉の上に二人で寝転ぶと、むせるようなコスモスの匂いに酔いしれて、花の海の底に沈んだような、不思議な気分になるのだった。

 「次の日曜日にみんなで飛行場へ行くだと」
 花に囲まれた天上窓から空を眺めながら、芳輝が思いがけないことを言う。
  「ほんと?何しに?飛行機に乗るの?」
 「知らん。あんちゃんがそう言ってた」
 飛行場といえば、いつも興安橋で、遠く離発着するのを眺めていたあそこだ、と私は思う。うれしさがこみ上げてくる。
 「それよりもっと部屋を作ろう」
 芳輝はすぐに起きだして、「ここは見張りの部屋」「ここは倉庫」などと訳の分からないことを言いながら、コスモスの群落をあらかた踏み潰してしまった。

お陰でコスモス畑は見るも無残な姿になってしまい、その後コスモスの中へ入ると、そこを荒らした犯人に思われそうで、このとき以後コスモス畑へ入ることが出来なくなってしまった。思えばそれが私と、この花園の最後の出会いになった。

その夜長兄から飛行場へ行く話があった。なんでも春に献納した空き缶で『鍾馗』が3機出来たという。その日、献納に協力してくれたお礼に試験飛行をして見せるのだそうだ。『鍾馗』といえば、子供の間では、車輪が折りたためるようになった最初の飛行機で、世界一のスピードが出る戦闘機として人気があった。その飛行機がすぐ近くで見れるのである。

その日はすぐにやってきた。芳輝と私は芳純に連れられて、集合場所の興安橋へ向かった。背中のリュックサックには、おにぎりとおやつのビスケット、サイダーなどが入っている。昨夜から母とクーニャンが支度してくれたものだ。
 「いいなあ、鍾馗だぞ。鍾馗」
 芳輝は何度も同じことを繰り返した。うれしそうだった。

 私は兄たちが学校の遠足に行ったのを憶えている。私が小学校へ入る前、二人がリュックにサイダーを入れていくのを、羨ましく見ていたことがあるのだ。
 だが私には学校遠足の記憶がない。小学1年生なら最も楽しいはずの遠足と、それから運動会の記憶もない。昭和19年がそういう切羽詰まった時代だったのだろうと思うのだが、遠足の記憶がなかったために、この日の飛行場見学が、唯一、遠足の楽しい記憶となって残っているのだと思う。いや、よく考えればどこかの公園に多勢 で行って、背の低い灌木の茂みに、青い梅が鈴成りになっている様を、何か連想しながら眺めたおぼろげな記憶があるが、それがどこだったか、思い出せない。それが遠足だったのかどうかは分からないが、弁当を広げた記憶もないから、要するに学校遠足なんてやらなかったのだ。

 リーダーは『ミヤイタ君』という桜木小5年生の少年で、私の住んでいた安達街のこの地区の子供の代表だという話だった。興安橋へ集まったのは10人くらいだった。ミヤイタ君はリーダーらしくてきぱきとしていて、私の感じでは、することが大人びていて、格好良かった。親に連れられてではなく、子供たちだけで遠くへ歩くことが、それもお弁当を背負ってゆくことがこんなに楽しいものだということを私は初めて知った。 

新京飛行場
航続距離が短く東京への
直行便はなかった
新京-大連の運賃は
51円だったという

 私たちは線路の西側の土手をかなり歩いて、飛行場がすぐ近くに見えるところまで来てみんなで土手の上の草の中に腰を下ろした。見ると私たちと同じくらいの集団が三つくらい来ていて、やはり草の中に腰を下ろしている。
 飛行場はかなり広くて、大きな建物を取り囲むように、双発の航空機が何機も止まっていた。その一番近いところに明らかに戦闘機と思われる、単発の飛行機が3機並んで止まっている。精悍そうな銀色の翼と胴体に大きな日の丸が描かれているのが誇らしげに見える
 「あれだ、あれだ。あれが鍾馗だ」
 と誰かが叫んだ。
 「うわー、勇ましいなあ」
 「空を飛んでくれないかなあ」
 などと口々に言っている。みんな同じことを考えているのである。

 戦闘機はなかなか飛ばなかったけれども、時折双発の旅客機の発着があったりして私たちが飽きることはなかった。こうして1時間以上わいわい言いながら草の上でふざけるものや、持ってきたトランプで遊ぶものもいて、退屈もせず結構楽しい時間をすごしていたのである。
 リーダーのミヤイタ君の号令で、お昼の弁当を広げようとしたとき、突然一機の戦闘機のエンジンが鳴り出した。ごうごうという物凄い轟音である。誰かが拍手を始めた。するともうみんな釣られるように拍手が始まった。

 やがて戦闘機は舞い上がり、上空高く飛んで何回か旋回をした。そして高度を下げて私たちの真上で両翼を揺さぶった。
 「あれが合図だぞ」
 ミヤイタ君が大声でみんなに知らせた。
 その声を聞いて、私は耳の下の辺りがざわざわとして、鳥肌が立つのを感じた。これを武者震いというのだろうか、言い知れない感動が胸を埋め尽くすのを感じていた。こんな感覚は生まれて初めての経験だった。そしてこの時の感動が、やがて私の人生最初の『決意表明』に繋がってゆくのである。

  翌日、私は真っ先に担任の持丸先生にこのことを報告したのである。先生は腰をかがめ、私の顔の真正面で話を聞いてくれるのだった。
 「そう、それはよかったわね。先生も見たかったわ」
 持丸先生はそういって笑った。

 私が見た戦闘機が『鍾馗』だったのかどうか、それが献納の空き缶でできたものかどうか、あとで考えるとまことに怪しい話ではある。実を言うと、飛行機を見ている間でさえ、あんな空き缶でこんな立派な飛行機が作れるなど、子供心に半信半疑だった。ただ、そういう疑問を吹き飛ばして、憧れの戦闘機を間近で、それも離陸から着陸まで、完璧に見ることができたことは、私にとって何物にも代えがたい喜びだったのである。


 この頃になると、学校での先生の話も戦争のことばかりになってしまっていた。その話を聞いていると、日本軍はやたらと強くて負けることがないのである。
 私たちの精神状態は、特に図画の時間に特徴的に現われていた。私は戦争の絵ばかり描いた。私だけではない、男の子の描く絵はみんな戦争の絵だった。私の絵のパターンは決まっていて、空では何十機もの日本の飛行機とアメリカの飛行機が空中戦をやり、アメリカの軍艦を攻撃しているのである。アメリカの飛行機は殆ど撃たれて煙を出している。アメリカの軍艦には、その船くらいあるでかい爆弾が命中して燃えている。日本軍は無敵で、この絵を見るかぎり大戦果を挙げていて、これはもう大本営発表の比ではない。図画の時間がくるたびに、同じような絵を何枚描いたことだろう。

 図画の時間で、私が他の子供とちがっていたのは、しょっちゅう新しいクレヨンを持って行ったことだ。家を出るとき、図画のある日は母がいつも新しいクレヨンをおろしてくれるのだ。その時に言われる言葉も決まっていて、
 「またクレヨンを失くしてしまったの?どこへ置いてきちゃうの?毎日新しいのをおろしてるじゃないの」
 要するに、図画の時間のたびに私はクレヨンをどこかへ置いてきてしまうらしいのである。

 我が家の二階の押入れには何百個ものクレヨンが積まれていた。その頃のクレヨンというのはローソクに色をつけただけという代物で、かなり力を入れても色が薄くて美味く描けなかった。それでもクレヨンは良く売れたらしくて、父の会社では大量に日本から送ってもらっていたのである。私は私で、次は失くさないようにしよう、などと考えた記憶がない。ものを失くすなどということに無頓着だった。だから失くしたクレヨンがどこへいったか、などといって探したこともないのである。

 二学期になると、爆弾3勇士とか、特攻隊という言葉が流行りだした。特攻隊はやがて神風特攻隊に取って代わり、それに合わせて私の絵も次第に“進化”して、空中戦の戦闘機は、そのうちに敵機や敵の軍艦に体当たりをするようになった。これはもう、絵の中でさえ、日本軍には撃つ弾も爆弾もないことを意味しているのだ。敵機に体当たりをしている戦闘機も、敵艦に体当たりしている戦闘機も、そのどれも操縦士は私で、気持の中では、いつの頃からか、私は一人で神風特攻隊をやっていたのである。

 季節は忘れたが、父兄会という、今で云えば授業参観があって、廊下の壁に一年生全員の絵が張り出された。
 普段は教室の壁に、うまい絵だけが貼り出され、自分の絵が張り出されることは、エリート意識をくすぐって非常に自慢すべきことだった。だから私も今度こそは、と思いながらいつも絵を描いていたのだが、かなりうまく描いたつもりでも、なぜか私の絵は一度も貼り出されたことがなかった。

 その日の朝、登校して教室の廊下の窓に自分の絵が貼り出されているのを見つけて、私は飛び上がるほどうれしかった。今日父兄会に母が学校へ来ることになっていたから(私の絵が貼り出されているのを、お母ちゃんが見てくれる)私はそう考えて心底わくわくしていた。子供というのは誰よりも先ず、母親に褒められたいものなのである。それが父兄会用に、無理やり全員の絵を貼り出したものだなどということを、私は知らなかった。

 学校を終えてルンルン気分で家に帰った私は、母に誉められる期待感を胸に、その瞬間になったときの笑顔を顔いっぱいに浮かべて、いつものように弟とおやつを食べていたのである。これを横で見ていた母がしみじみと言った。
 「おまえは、絵がヘタだねえ――」

  何の時間か忘れたけれど、持丸先生が一冊の本を片手にガダルカナルの話を読んでくれた。ガダルカナル島はニューギニアの1.000キロほど東にあるソロモン群島の中の島のひとつで、太平洋戦争の初期、半年もの間日米が死闘を繰り広げ、日本兵2万人が戦死した悲劇の島である。ニューギニアの北には日本海軍最強といわれたラバウルの基地があり、そこに匹敵する航空基地を作るために巨大な飛行場を建設していたのを、完成間際にアメリカに奪われ、日本軍が負けに転ずるきっかけとなった戦いといわれているところだ。

 「私の○○もここで名誉の戦死をしました」
 本を読む前、持丸先生はそんな風なことを言ったが、私はよく聞いていなかった。
 話の筋は、一人の日本兵の伝令が、アメリカ軍の支配するジャングルを潜り抜けて味方の陣地へ向かうのだが、途中に見張りのアメリカ兵が鉄砲を構え、口笛を吹きながら歩哨に立っている。それを背後から近づき短剣で倒して味方の陣地へ行ってみると、日本兵はもうそこにいなかった、というような筋だった。勇ましい話ではなく、どこか悲しい話だったが、私はそこのところだけしか憶えていない。なぜなら私は、本を読みながら大粒の涙を浮かべている持丸先生の目ばかり見ていたからである。

 多分お身内の方をなくされたのだろうと思う。その悲しみを押し殺し、こんな風に、『死』の意味もわからず、何の疑念も持たず、「敵に体当たりして死ぬんだ」などと、子供に平気で言わせる教育をせざるを得なかった先生の胸中は、いかばかりだったろう。今思えば、悲しい時代の悲しい先生と生徒だったのである。

 9月の終わり頃か10月の初めだったか、朝、教室へ入ると窓の外の校庭の様子が一変していた。前日校庭に何人も人がでて土をいじっていたのはこのためだったのかなどと思いながら、窓によって見ると、そこはいちめんの氷の世界で、庭いっぱいに銀色のスケートリンクが出来上がっていた。
 日本なら秋たけなわという季節に、満州ではもう冬が始まる。昼間はまだ日差しも残るが、大陸性気候というのか、夜の冷え込みが激しいのである。そして、この日を堺に体操の時間はスケートということになった。

 兄たち二人はスケート靴を持っていたからそれを持って学校へ通ったが、この年父は私にスケート靴を買ってくれなかった。なんでも戦争に使う鉄が足りなくて、贅沢品のスケートの刃は売っていないのだという。だから私は体操の時間をスケート靴なしで過ごさねばならなかった。

 私ばかりではない。一年生は大半そうだったから靴がなくて恥ずかしいなどということはなかった。スケートリンクは畦で仕切られ、上手に滑る人は外側の競争用のコースを廻れる。それができないものは内側の練習用のコースを使うのだが、スケート靴のない一年生は教室から椅子を持ち出して、それをソリ代わりにして遊んでいるほかなかった。この年に限って言えば、椅子を使う子供が特に大勢いたという話だった。私が7年も満州にいて、スケートができないまま日本に帰ってきたのはこんな戦争にも一因があったのである。

 時期は忘れたが、大連で墜落したというB29の残骸が三中井の前に展示され、父に連れられてそれを見に行ったのもこの頃のことだ。とてつもなく大きなプロペラとトラックほどもある巨大な燃料タンクが眼に残っている。父はその真っ黒な燃料タンクをつぶさに眺めて言った。
 「こりゃあ弾が貫通しても穴がたちどころに塞がって、燃料が漏れないようになってる。生ゴムみたいなもんで出来てるぞ。凄いなあ」
 このときの立看板には、アメリカ兵はチューインガムなどを噛みながら戦争に来ている。こんな堕落した軍隊に日本が負けるわけがない。というようなことが書かれていて、それを読んだ父が
、「むこうの飛行機は操縦席を弾から守るように作ってある。日本もこうならいいんだがなあ」
 と呟いていたのを思い出す。

 満州は石炭が豊富で、冬の暖房に事欠くことはなかったが、戦争の状況を象徴するように、街には木炭自動車が走り、ガソリンの一滴は血の一滴とか、一億火の玉などといういう言葉をやたらと耳にするようになり、一年前とは明らかに様子が変わってきていた。資源がなくて鉄砲玉は作れなくても、スローガンを作るのに鉄は要らない。百でも千でも好きなだけ作れるからだ。

 重苦しい風が吹き始めていた。事実、日本軍はマリアナの敗戦で領土だったサイパンを奪われ、その責任を取って東条内閣が辞職し、レイテ湾の海戦で海軍は壊滅し、資源の供給を絶たれた日本にもはや戦争の遂行能力は殆ど無くなっていたのである。アメリカの日本本土の爆撃が始まり、風雲急を告げる中で昭和19年が終ろうとしていた。そんな中で、殆どの国民は真実を知らされず、日本の勝利をひたすら信じ、私たち子供は無邪気に兵隊さんになることを夢見ていたのである。

 




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